ウェールズを知る
――ウェールズ情報全般――



国名の由来
 ローマ人がブリテン島の支配を放棄し、ローマ軍が島から撤退した5世紀には、様々な民族がブリテン島に移住してきた。彼らは様々な国を形成し、互いに覇権を競って争うこととなる。

 その中で隆盛を極めたのが、アングロ・サクソン人である。彼らはブリテン島の南を治め、もともとその地に住んでいたケルトの民は彼らの奴隷となるか、さもなければ北部全般や西の一部に逃げ延びる命運を辿った。この時西の山岳地帯に逃げ延びたケルト民族が、いくつかの国を築き、国と国とで結束し、現在のウェールズの基盤を作ったのだ。

 この時、彼らは自分たちのことを、彼らの言葉で「同胞」「仲間」を意味するカムリ(Cymry)と呼んだ。しかし自分たちの奴隷とならず、西の山岳地帯で団結して反撃に出た彼らのことを、勢力を拡大しつづけるアングロ・サクソン人たちは彼らの言葉でウェリース(Weleas)と呼んだ。この言葉は、「余所者」「外国人」を意味した。

 その結果、この国はふたつの呼び名をもつことになった。英語ではウェールズ、彼らの言葉ではカムリ。しかしながら現在では、英語の呼び名の方が浸透している。

地理
 イングランドの中央部西側に位置する。南北の距離が約140マイル(約224キロメートル)で、東西は約100マイル(約160キロメートル)と、南北に長い地形を持っている。周囲3方を海に囲まれており、その海岸線の長さは、732マイル(1177.6キロメートル)にもおよぶ。

ウェールズ
 面積は8015平方マイル(約20720平方キロメートル)。日本の四国の面積が18296.37平方キロメートルなので、四国と東京都の面積(210235平方キロメートル)をあわせると、ウェールズの面積とほぼ同じとなる。

 ウェールズの北緯は52.4度。日本の北海道の札幌が43.0度だから、北海道よりも北に位置する。だがメキシコ湾からの暖流がウェールズを囲むように流れ、また、スノードンを筆頭に標高の高い山々が壁となり、寒気の流入を防ぐ。そのためこれほどの北緯にありながら、極寒の地ではない。

 ウェールズは便宜上、北ウェールズ(North Wales)、中部ウェールズ(Mid Wales)、南ウェールズ(South Wales)の3つに大別できる。北ウェールズの中心には険しい山脈が広がり、その山脈を歴史のある街/村と穏やかな海岸線が囲む。中部ウェールズはなだらかな丘と森林地帯が続き、その豊かな自然の懐の中に村が点在している。首都カーディフのある南ウェールズは、ウェールズきっての都会である。カーディフにはウェールズ議会が1999年7月1日に設置され、経済、教育、政治(イングランドから任されているもののみ)などの中心となっている。

 全面積の81パーセントが農業に使われ、12パーセントは手つかずの森として残っている。都会として数えられるのは、全面積の7パーセントであり、そのほとんどが南ウェールズに集中している。

 平坦なイングランドの地形とは異なり、ウェールズは起伏に富んだ地形を持つ。全面積の約25パーセントが標高1000フィート(304メートル)を超える。最も高いのが、北ウェールズにあるスノードニアである。標高3560フィート(1085メートル)を誇るスノードニア山は、イングランド及びウェールズで最も高い山である。

   ※ウェールズの地理を紹介している英語サイトThe National Gazetteer of Wales内にあるウェールズ広域地図は、こちら

   ※その他、時差や気候など基本的な情報に関しては、「ウェールズに行く――ウェールズ旅行あれこれ・旅情報」参照のこと。

人口
 2011年に行われた国勢調査の結果によると、人口は3,060,000人。この数字は2001年の国勢調査時(※2001年には2,900,000人だった)より、5パーセント増加しており、人口統計以来最大の数である。この増加分5パーセントのうち92パーセント(約141,000人)が、イギリス国内外からの移民/移住だ。すなわち人口増加の原因は新生児による増加ではなく、他国から移ってきた人間ということになる。

 全人口のうち男性が約1,500,000人。女性は約1,600,000人。女性の方が男性より多い。また全人口のうち18パーセント(563,000人)が65歳以上の高齢者となっている。逆に6パーセント(178,000人)が5歳以下の幼児だ。どちらも2001年の結果より増加している。高齢者の数が圧倒的に子供の数より圧倒的に上回っており、ウェールズも高齢化社会であることがうかがえる。

 また全人口のうち66パーセントに当たる2,000,000人が、ナショナル・アイデンティティをウェールズ人であると回答。このうち218,000人が自分はウェールズ人であると同時にブリティッシュであると、答えている。一方で自分のナショナル・アイデンティティはブリティッシュであると回答した人は、約17%となっている。

 ―――

 2007年の統計では、ウェールズの人口は約296万5千人だった。自治体ごとに見てみると、最も多いのが首都のあるカーディフで約31万7千人。ついでかつて炭鉱でにぎわったロンザ・カノン・タフで23万3千人。その次がスゥオンジーの約22万7千人であるから、全人口のおよそ3分の1の人口が南ウェールズの都市部で生活をしていることになる。

 なお1998年の統計では、ウェールズの全人口は約293万人だった。その内訳は首都のカーディフがあり、産業の中心でもある南ウェールズが最も多く、約180万人。またそのほとんどが、首都カーディフおよびその周辺に集中している。次いで北ウェールズが約66万人。南ウェールズが約48万人となっている。2004年の統計では、295万3千人に増加した。

 かつて1801年には、ウェールズ人口は50万人を超えるほどだったと言われている。だが産業革命の波がウェールズにも押し寄せ、南ウェールズの石炭と鉄の産業の開発が急速に進歩すると、爆発的にその人口が増えた。1841年には、ほぼ倍の104万人となった。この数字は、1827年までにイギリスの鉄輸出量の半分を、南ウェールズの産出量がまかなうまで成長したことと一致する。

 その後も石炭の炭鉱へ従事する人のために、人口は増えつづけ、1901年には、200万人の人がウェールズに住んでいたと言われている。その労働力の多くは、南ウェールズの炭鉱および鉄鋼業に従事した。これを数字で示すのが、南ウェールズ屈指の炭鉱地帯ロンザ丘陵(Rhondda Valley)の人口推移である。この丘陵一帯では、1860年には3千人の人が住んでいた。これが1910年には16万人に増加している。いかに南ウェールズが炭鉱とともに発展していったがわかる数字である。

通貨と為替
 イングランドと同じくポンド(pound / sterling pound)。略称は£。2015年9月9日現在の為替では、1ポンド≒185.85円となっている。

 1ポンドは100ペンス。アメリカドルと同じように、ポンドとペンスの間はピリオドで区切り、表示することができる(例:10.50=10ポンド50ペンス)。

 1999年から4年間の間は180〜200円の間を推移していた。2004年になってからは、200〜215円の間である。以後、イギリスの好景気に伴いあがり続け、2006年6月には210円台だったものの、2007年にかけては240円強を超え、7月には250円になった。イギリスそのものが好景気の証だった。

 だが、2007年10月に240円をつけて以来、為替が不安定になる。幾度が上下を繰り返した後、2008年があけてからは急落した。2008年1月6日現在で1ポンドは214円になったが、その後も下降し続け、2008年3月10日には1ポンド=205円、3月21日には196円台となっている。

 その後、ポンドは不況の影響もあり急落。年が明けて2009年4月5日現在では、やや持ち直したものの、1ポンド≒148円だ。

 その後、かなり上下を繰り返し、2013年6月18日には再び1ポンド≒148円に戻ったものの、7月に入ってからはやや上昇傾向を見せ、2013年7月28日現在では1ポンド≒151となっていた。その後、150円から155円の間を細かく上下していたものの、9月に入ると一気に上昇傾向を見せる。11月14日には160円台を突破。11月27日現在では、165.76円まで上昇している。

 なお紙幣はイングランドとウェールズでは、イングランド銀行が発行した紙幣を共通して使用している。スコットランドや北アイルランドで発行された紙幣は、拒否されることもあるので注意が必要だ。

   ※詳しくは「ウェールズに行く――ウェールズ旅行あれこれ・旅情報」参照のこと。

公用語
 英語とウェールズ語が、公用語として使われている。ウェールズの全住民が英語を喋るが、ウェールズ語を喋ることが出来るのは、ウェールズ全人口の2割程度である。しかし日常的にウェールズ語を使用しているのは、1割程度だということだ。

 この主だった原因は、1536年にウェールズがイングランドに統合された時、イングランドの王ヘンリー8世が、ウェールズ語の使用を教会以外では禁じた歴史的事実にある。即ちウェールズ語は、1967年に公用語として認められるまでの長い間、イングランドから禁止された言葉だったのだ。

北ウェールズで見かけたウェールズ語と英語の二重表記の看板
 ウェールズ語を日常的に喋る人は、北ウェールズに集中している。特にスラン半島(Llyn Peninsula)では、そこに住む人の75パーセントがウェールズ語を話すといわれており、アングルシー島(Anglesey)では住民の62パーセントがウェールズ語を第1言語としている。

 だが、その数は年々減りつつある。しかし1939年にウェールズ語の教育が再開されて以来、多くの子供がウェールズ語を学校で習い、徐々にではあるが、減少の傾向に歯止めがききつつある。現在では、中高年の年代よりも若い世代のほうがウェールズ語を喋ることができる、との報告もある。

 ウェールズ語は、英語とは異なるウェールズ語特有の発音と、英語とは全く違う文法を持っている。ただし表記には、英語と同じくアルファベットを使用する(詳しくは「ウェールズ語」のページを参照のこと)。そのため、英語とウェールズ語の二重表記が、ウェールズ国内のいたるところで見受けられる。

 ウェールズ語は、ケルト語のひとつであるブリトン語から派生している。またアイルランドからウェールズの北西部および南西部に、ゲール語を喋るケルト人が流入してきており、結果、ゲール語からの影響も受けている。ウェールズ語をブリトン語を基本に、ゲール語からの影響も受けた言葉だといえるだろう。


ウェールズ語と英語の二重表記による案内標識
(クリックで拡大)
(撮影:2004年ニューポート)

守護聖人
 ウェールズの守護聖人は、聖デヴィッド(St. David / Dewi Sant)である。

 聖デヴィッドの日は3月1日。この日、ウェールズの人々はウェールズ語でしゃべり、デヴィッドの旗を掲げ、緑を身にまとい、国章であるラッパ水仙かリークをみにつけ、聖デヴィッドを祝う。この日には教会で宗教的儀式が行われるのはもちろんのこと、都市などではパレードも行われる。

 なお3月1日が聖デイヴィッドの日として一般的に定められたのは、18世紀のことである。

 聖デヴィッドについて詳しくはこちら
(左写真:聖デイヴィッドを象ったステンドグラス。聖アサフの大聖堂で2007年8月に撮影)



聖デヴィッドの大聖堂(クリックで拡大)
(撮影:2011年08月16日)


国旗
 ウェールズの国旗は、その旗の中央にウェールズの象徴である火を吐く赤いドラゴンが描かれている。その背景は上下に二分され、上半分が白、下半分が緑となっている。

 赤いドラゴンがウェールズの象徴となった理由には諸説あるが、白と赤の二頭のドラゴンの戦いを8世紀に記録した伝説との関係を、指摘する人もいる。この伝説では、当初白ドラゴンが優勢となるが、最終的に赤いドラゴンが白を打ち負かすところで話が終る。つまり白が象徴するのは侵略者たちで、どんなにその侵略者たちに苦しめられても、最後はウェールズが勝利をおさめるというわけである。

 この旗はかなり古くから使われており、古くはローマ支配の時代にまでその記録を遡ることが出来る。しかしながらこの旗を、「イングランド」がウェールズの国旗として認めたのは、1959年のことであった。

国章
 セイヨウネギ(the leek)とラッパスイセン(the daffodil)のふたつである。

座右の銘(モットー)
 “Cymru am byth”(ウェールズ語)――“Wales forever”(英語)――「ウェールズよ永遠に」(日本語)

オファズ・ダイク(Offa's Dyke)
 「オファの堤防」とも「オファの土塀」とも呼ばれる。8世紀にアングロ・サクソン(後のイングランド)のメルシア王国(Mercia)の王オファが、ウェールズ人を現在の半島状の土地に押しこめる目的で築いた人工の土塁。北はチェスターのあたりから、南はチェプストウまで延々と続く。全長168マイル(≒269キロメートル)。

 当時、ウェールズもイングランド(アングロ・サクソン)も。いくつかの王国に分かれ、互いに覇権を争っていた。この堤防(もしくは土塁)が築かれたおかげで、ウェールズの各王国が結束し、ひとつとなることを促進した。逆説的にだが、この堤防が他の民族によって築かれたおかげで、分裂していたウェールズ人がひとつとなったのである。

 現在のイングランドとウェールズの“国境”も、多かれ少なかれ、このオファズ・ダイクに従っている。なお現在はその堤防は風化が進み、現存する箇所は数えるくらいである。中部ウェールズのナイトン(Knighton)周辺が最もよく残っていると言われ、このナイトンにはオファズ・ダイクに関するセンターがある。また現存する箇所周辺は、ハイキング・コースとして親しまれている。


オファズ・ダイク・パス(ハイキング・コース)を示す道標
(撮影:ウェルッシュプールの近く、2007年)

最後の“プリンス・オブ・ウェールズ”
 中世およびそれ以前のウェールズ内には、小国がいくつも存在した。それを平定したものもいる。たとえばサウェリン・アプ・イオルエルス大王。彼は全ての小国に自分へ忠誠を誓わせる。そして王としてウェールズを統一、統治した。

 しかしながらその後もウェールズは分裂と統一を繰り返す。そして最後にプリンス・オブ・ウェールズを名乗ったのは、ウェールズ生粋のサウェリン・アプ・グルフィッズ(1248-82)だった。彼はウェールズ内で分立していた各王国を次々と統治。そして1258年、自ら「プリンス・オブ・ウェールズ」を名乗った。

 その力は当時のイングランド王エドワードも一目を置くほどだった。実際、エドワードはサウェリンを戦いで破った。そしてサウェリンの力を侮れないと感じたエドワードは、サウェリンに忠誠を誓わせる。その代償としてサウェリンに「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えた。これにより主従関係は存在するものの、ウェールズは一国として認められたのである。民はサウェリンの下、平和を享受した。

 しかしこの平和も長く続かなかった。ウェールズの完全なる独立を求め、貴族の一人がイングランドに反旗を翻した。サウェリンの弟ダヴィズだった。これにより、戦火の火蓋が切って落とされる。サウェリン自身もこの戦いに加わらねばならなくなる。

 戦局はウェールズ有利に傾いた。ここでウェールズの貴族ながら、イングランド側に加担しているエドモンド・モーティマー男爵らが、サウェリンに忠誠を誓うと申し出る。お互いに敵意のないあわられとして、非武装で会うこと要求。サウェリンはそれを飲んだ。

 しかしこれは罠だった。エドワードが仕組んだとも言われる。モーティマー男爵との約束の地でサウェリンが見たのは、イングランドの騎兵隊だった。そしてサウェリンは騎兵隊の前に斃れる。1282年12月11日、金曜日のことだった。場所は中部ウェールズのブイルス・ウェルズ近く村キルメリを流れる、イルヴォン川だった。この瞬間、「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号は、ウェールズからは失われた。

註・・・ 旧標準表記は「スウェリン・アプ・イオルエルス大王」。以下同。
プリンス・オブ・ウェールズとプリンセス・オブ・ウェールズ
 南ウェールズを舞台とした映画『ツイン・タウン』(1997年)の予告編で、主人公のクソガキがプリンス・オブ・ウェールズを「あいつはウェールズ人じゃねぇ」と吐き捨てる。実にそのとおりなのである。ウェールズ人とは無関係の、イングランドの王子およびその妃に与えられる称号である。

 イングランドの王エドワード1世が、サウェリンを1282年に倒した時、一旦、この称号は失われる。だが、1284年にイングランドがウェールズを併合した時に、この称号が再び浮上してくる。そしてこの時、その称号の意味は変った。

 ウェールズ完全統治を急ぐエドワード1世は、その力を誇示するためにイングランドの軍隊を率いて、ウェールズ中を旅をして回った。その途上、北ウェールズの城壁都市カナーヴォンで、妻のエレナーとともにエドワードは滞在する。この時、カナーヴォン城のイーグル・タワー(Eagle Tower)でエレナーにエドワード2世を出産させた。


カナーヴォン城。イーグル・タワーは画面奥。
(撮影:2011年8月)

 そしてウェールズの貴族を城に集めた。居並ぶウェールズの貴族を前にして、王は息子を「『ウェールズに生まれ、英語を喋れない』王子」(a prince "that was born in Wales and could speak never a word of English")と紹介したことから、一旦はサウェリンの死と同時に失われたこの称号が、浮上してくる。そして1301年に、エドワード1世が息子のエドワード2世に、プリンス・オブ・ウェールズの称号を与えた。この瞬間にウェールズの貴族は、イングランドの王子に忠誠を誓わねばならなくなる。そしてこの称号は、イングランドの王もしくは王女の長男に与えることが、伝統となった。現在でも、イングランドによるウェールズ統治を示すために、カナーヴォン城で叙任式が行われている。

 なおチャールズ皇太子は、21代目のプリンス・オブ・ウェールズである。

政治
 政治は、イギリス議会に委ねられている。しかし、イギリスの地方分権政策の一環として、1999年5月にウェールズ議会(the Welsh Assembly)がカーディフに設立された。これにより、予算編成、政策立案、公的機関の監督などの政治的権限を、ウェールズ人たちがもつことが出来るようになったのである。

ウェールズ議会
 1997年、時の首相トニー・ブレアにより、スコットランドとウェールズへの自治権委譲が提案される。これに対して国民投票が行われ、ウェールズでは50.3%が賛成票を投じた。その結果、発足したのがウェールズ議会(National Assembly for Wales)である。

 議会はファースト・セクレタリー(首相に当たる。イギリスの首相Prime Ministerと区別して特別にこう呼ばれる)を筆頭に、8人の大臣と60人の議員で構成される。

 2006年3月1日、カーディフ湾にウェールズ議会の建物Senedd(「議会」「国会」の意味)が正式にオープンした。建物の中心にある木造の吹き抜け以外は、全てウェールズの資源から作られている。建築には3年の月日と6700万ポンドもの金額を費やした。その総工費は、当初の予算の3倍である。


[上写真] Senedd外観とその内部
[下写真]埠頭ビル(Seneddのすぐわきにある)

国歌
 ウェールズの国歌は、“Hen wlad fy nhadau”である。その意味するところは、「わが父祖の大地」だ。もちろん歌詞はウェールズ語である。

音楽
 伝統的なウェールズの音楽で有名なのは、力強い男性コーラスと、ハープである。これらの伝統は現在でも伝わっており、特に、男性コーラスはさかんである。

 1990年代に入ってからは、新しい世代の若い音楽がウェールズでも生まれている。特に、イギリス国民投票による「ミレニアムで最も偉大なバンド」で9位を飾ったマニック・ストリート・プリーチャーズ、全編ウェールズ語のアルバムを発表したスーパー・フューリー・アニマルズ、そして現在のイギリス音楽では彼ら抜きには考えられない、と、言われているステレオフォニックスなどの活躍は目覚しい。なお、日本でも癒し系の音楽として非常に人気の高いアディエマスを産み、指揮しているカール・ジェンキンズはウェールズの出身である。

 世界的な活躍をしているBBCウェールズ交響楽団(BBC National Orchestra of Wales)は、カーディフの聖デヴィッド・ホールを拠点にもつ、88人の団員から構成される(1995年時点)フル・オーケストラである。日本との関りも深く、1987年から8年間、尾高忠明が主席指揮者として就任し、尾高は後に「尾高はウェールズで奇跡を行った」(ロンドン・サンデー・タイムス紙)と評されるほど、オーケストラの育成に力を注いだ。また彼らは、世界に名だたる日本の作曲家、武満徹(1930-1996)の曲を録音した『ファンタズマ/カントス〜武満徹作品集』『武満徹:鳥は星形の庭に降りる』を、発表している。

 ウェールズ・ナショナル・オペラ(Welsh National Opera;略称WNO)の発足の歴史は、1943年にまで遡る。1970年より活動をともにすることになった、ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団の名とともに、世界のオペラ・ファンから高い評価を受けている。

 なお尾高は、1993年にウェールズ音楽演劇大学より名誉会員の称号を、またウェールズ大学からは名誉博士号を授与されている。1996年にはウェールズ交響楽団桂冠指揮者に任じられている。

宗教(Religion)
 イギリスで人口調査の際に、宗教を問うたのは3回(2013年現在)。1851年と2001年、2011年のいずれも国勢調査である。

 1851年の調査は、宗派を問うた唯一のものである。それによればウェールズでは国教徒が32パーセントだったのに対して、メソジストは33パーセントだった。これにより、ウェールズでは非国教徒の割合が、国教徒の割合を上回ることが判明する。

 2001年、2011年の回答方法は自由意思での回答である。まず2001年からみていこう。2001年の調査によると、無回答および“無宗教”が全体の27パーセント。72パーセントがキリスト教と回答し、残す1.5パーセントが別の宗教だと答えた。その1.5パーセントの中で最も多かったのが、イスラム教であった。

 キリスト教以外の宗教と回答した人の多くは、カーディフに住んでいる。カーディフの全人口の6パーセントであるが、これはカーディフの白人以外の民族の人口が8.4パーセントであることに合致している。

 次いでキリスト教以外の宗教と答えた人の割合が多いのが、やはり南ウェールズのニューポート。3パーセントである。それ以外の自治体では、2パーセントを割っている。

 替って2011年には、キリスト教徒と回答した人の数は57.6パーセントと、2001年の結果を大きく下回った。これは14.3パーセント減である。イングランドのどの自治体と比較しても、最も大きな下げ幅だ。

 無宗教と回答した人は、全体の32.1パーセント。13.6パーセント上昇している。

 またこれ以外の宗教は、2001年の調査ではどれも1パーセントを割っていた。しかしながら2011年には、イスラム教徒が1.5パーセントと初めて1パーセント台を突破したばかりか、その数は倍加している(2001年のイスラム教徒は0.7パーセントだった)。これは憶測に過ぎないが、人口増加のうち92パーセントが、ウェールズ外からの移住者であることと関係があるのではないだろうか。

宗教:Church と Chapel
 ウェールズ人の大半はキリスト教徒であるが、その内情は複雑の一言に尽きる。標題にあげたchurchもchapelもともに教会を指す言葉だが、イギリスではそれぞれ意味が異なる。具体的にはchurchは英国国教会(聖公会)系列の教会を指し、chapelはカソリックやメソジストなど英国国教会に属さない教会を指す。

 ウェールズの国教は、イギリスの国教でもある。即ちイギリスの国教は英国国教会(聖公会)(Church of England)、言い換えれば、「イングランドの定めたキリスト教」であり、それ故にウェールズの国教はウェールズ国教会(Church of Wales)ではなく、「英国国教会ウェールズ支部」(Church in Wales)である。そのためにウェールズには、churchに通うのではなく、chapelに通う非国教徒(Nonconformist)も多いと言われている。

 ところで、ウェールズ語の地名によく見られる“eglwys”や“llan”は、ウェールズ語で「教会」を意味する――このことは、ウェールズ語が禁止される以前に、キリスト教がウェールズ人の文化の要であったことを証明する事実として、興味深い。この場合指すのは、ウェールズに英国国教会が入ってくる以前に、ローマからの巡礼者たちによって持ち込まれた初期キリスト教や、6世紀にアイルランドより入ってきたカソリックである。

 教義の異なるカソリックは、イングランドの敬虔な家庭では嫌らわれる。だが先の理由から、ウェールズでは事情が異なる。ウェールズでは人々が非国教徒のchapelに集い、ウェールズの文化を守ってきた。守ってきたもののひとつに、chapelで礼拝時に熱心に歌われた賛美歌があげられる。これら賛美歌を合唱することを会衆に特に勧めたのは、非国教のメソジストの牧師だった。

 これら賛美歌はウェールズ人が作曲/作詞したものが好まれた。言語のところで既に触れたが、ウェールズ語の使用が許されたのは16世紀以来、教会の中だけである。既にウェールズの古い音楽は失われてしまった後だったが、詩に向くと言われるウェールズ語特有のリズムだけは残った。そして彼らはウェールズ語で歌詞を書き、それに見合う旋律をつけた。そしてchapelは、ウェールズの音楽と言葉を守ったのである。

 だがchuchが果たした役割も忘れてはならない。最初にウェールズ語に聖書を完訳という偉業を成し遂げたのは、Church of England(註:当時、Church of EnglandからChurch in Walesは分離していない)の牧師モルガンである。イングランドに許可を得て、ウェールズで生まれ、ウェールズで牧会をしていた牧師モルガンは、聖書をウェールズ語に全訳したのである。1588年のことであった。

 彼はそればかりでなく、ウェールズ語の辞書の編纂も行っている。後に、これらの業績をいかし、ウェールズ語の文法書が編纂された。教会の日曜学校では、これらを教材とし、キリスト教の教えを説き、また、ウェールズ語を民衆に教えたのである。即ち、ウェールズ語を守るのに貢献したのはchapelだけではなく、churchも重要な役割を果たしていたのだ。

 なお、ヘンリー8世が英国国教会を作った時、ウェールズ側から大きな反対がなかったことと、現在ではChurch Of EnglandとChurch In Walesは、全く別の組織から成り立っていることのふたつを、記しておく。

 ウェールズにおけるメソジストについては、こちらからどうぞ。

ウェールズ英国国教会(Church In Wales)
 宗教の項目で既に触れたように、ウェールズの国教はChurch In Walesである。1920年にChurch Of England から独立し、現在にいたる。

 ウェールズへのキリスト教布教の歴史は古い。597年のアウグスティヌスのイングランドへのキリスト教布教以前に、アイルランドから宣教師たちがウェールズに渡り、ウェールズ人をキリスト教に改宗させていったことが知られている。その後、ヘンリー8世の宗教改革により、Church Of Englandが国教となる。

 しかしながら1920年に始った英国国教会の分離運動の結果、ウェールズ英国国教会はChurch Of Englandから別の組織体系として独立する。現在ではウェールズ大司教の下、ウェールズを6つの教区に分けている。教区は、バンゴール(Bangor)、セント・アサフ(St. Asaph)、セント・デイヴッズ(St. Davids)、スウォンジー・アンド・ブレコン(Swansea And Brecon)、サンダフ<スランダフ>(Llandaff)、モンマース(Monmouth)である。

 なお、英国国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂の第104代目大司教に、2003年2月に就任したロワン・ウィリアムズ(1950-)は、スウォンジーの生粋のウェールズ人家庭生まれである。カンタベリー大司教はイングランド人が歴代勤めており、ウェールズ人が就任したのは極めて異例のことである。なお着任式では、ウェールズ語の詩をソプラノ歌手がウェルッシュ・ハープの伴奏にあわせて歌い、ウィリアムズの大司教就任を祝った。





ウェールズ?! カムリ!
写真と文章:Yoshifum! Nagata
(c)&(p) 2004-2015: Yoshifum! Nagata




主要参考文献
Office for National Statistics, 2011 Census: Key Statistics for Wales, March 2011, (2012)
EMYNAU CYMRU / The Hymns of Wales, edited by Gwynn Ap Gwilym and Ifor Ap Gwilym, (Y Llolfa, 1995)
The Green Guide: Wales, (Michelin Travel Publications, 2001)
Davies, Biran, Welsh Place-Names Unzipped, (Y Llolfa, 2001)
Jones, J. Graham, The History of Wales, (University of Wales Press, 1990)




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