聖デウィ Dewi Sant / 聖デヴィッド St. Dabid
――ウェールズの守護聖人――



ウェールズの守護聖人って?
 ウェールズの守護聖人は、ひとり。ウェールズ語名で聖デウィ Dewi Sant。英語名で聖デヴィッド St. Davidである。

 聖デヴィッドを祝う日は3月1日。毎年この日には、ウェールズをあげての祭典が行われる。

(左写真:聖デヴッドをかたどったステンドグラス。聖デヴィッドの大聖堂にて2011年8月、撮影)


生誕
 聖デヴィッドは、6世紀、ペンブロークシャー(Penbrokeshire)に聖ノン(Non)とサント(Sant)の間に生まれた。言い伝えによれば、ノンはサントに暴行される。その際、横たわるノンの頭と足のところから、巨大なふたつの石が地中から出現したという。これが聖デヴィッドをノンが身ごもった印(しるし)だった。

 だが彼女が暮らす一帯を治める首長カニル(Cynir;一説によればノンの父親だったという)が、ノンとまだ生まれぬ子(聖デヴィッド)を殺すことを企てる。それは「この地を支配する力を持つ子が生まれる」との予言がもたらされたためだった。

 しかし産気づいたノンを首長から守ったものがある。それは嵐だった。嵐が襲い、雷が鳴り、洪水が起こったため、首長はノンと聖デヴィッドの命を奪うことが叶わなかった。そしてノンが聖デヴィッドをまさに生もうとした時、ノンの周辺が煌々たる光に照らし出された。まるで天界が照らすような光の中、ノンは聖デヴィッドを生む。聖デヴィッドがまさに生まれた瞬間、大地から輝くような泉が噴出した。


(左写真:聖デヴィッドの母である聖ノン、聖デヴィッズにある聖ノンのチャペル(The Chapel of Our Lady and St. Non)にて2011年08月16日撮影)


生涯
 11世紀にRhugyfarchが記した書物Life によると、聖デヴィッドはアバーダロン(Aberdaron)の近くHen FyntwとLlanddeusantで教育を受けた。巡礼を続けながら修行を積み、現在のセント・デイヴィッド(St. David's)と呼ばれる南西の街に定住した。そしてエルサレムまで巡礼した際に、大司教(Archbishop)として任命される。

特徴
 聖デヴィッドには、他の聖人にない特徴がある。ひとつは背が高かったこと。6フィートもしくは2メートルというから、かなりの長身である。

 もうひとつは宗教家にして怪力の持ち主だったこと。牛が2頭立てになって引く鋤を、一人で引いて大地を耕せたという。

主食と水
 聖デヴィッドの主食は、パンとハーブ(薬草)だけだったという。これは当時の修道院では、一般的な食事だった。

 それと、よく水を飲んだそうだ。水だけで生活したとも伝えられているが、それはどうやら修道の道を追及する際に行った、修行の一環だったようだ。またその際、冷たい水に首まで浸かり、その状態で聖書の詩篇を暗誦/朗読したという。

当時の修道士の生活
 当時の修道士の朝は、鶏の鳴き声とともに始まり、祈りで幕を開ける。続けて、野畑に出て労働。自ら鍬やシャベルをふるい、大地を耕した。また牛は使わず、鋤は修道士がくびきを肩にかけ、引いたという。

 労働が終わると、各自分かれ、それぞれ読書や書き物、もしくは祈りへと移って行った。そして鐘の音を合図に、教会へ集合。賛美歌を詠唱し、祈祷を捧げた。

 それが終わると、簡素な夕食である。ハーブとパンだけだったと伝えられる。その他、信者らからの施しものもあったようだが、聖デヴィッドは頑として施しものを受けなかったという。

 食事が終わると、3時間に渡り、祈りの時間が続く。そして就寝。翌朝もまた、鶏の鳴き声で始まる。ゆっくりと休まる時間など、ないのではないだろうか。

 かなり大変な一日だ。これだけでも大変なのに、これに加え、病気のものや貧しきものへの世話、そして、巡礼者がいればその対応も含まれていた。

死去
 589年3月1日、没(註:601年説あり)。その日は火曜日だったという。その亡骸は、現在、聖デヴィッドの大聖堂があるところに埋葬された。


聖デヴィッドの大聖堂(クリックで拡大)
(撮影:2011年08月16日)


聖デヴィッドの日と聖ノンの日
 聖デヴィッドはその死後、命日には教会で宗教的儀式が行われてきた。しかし16世紀にイングランドを中心に、一大宗教改革が行われる。それまで信仰されてきたローマン・カソリックを脱し、独自の教義をもつプロテスタント系英国国教会が設立されたのだ。この時、カソリック系の教会や修道院は破壊の道をたどることになる。

 そのため聖デヴィッドの命日は、教会では祝われなくなる。代わりに民間に伝わり、民間の間で祝われるようになる。時が下って18世紀。この時になって聖デヴィッドの日が、その命日にちなみ3月1日と制定された。ただしこの日は2012年現在、国民の祝日にはなっていない。

 この日を国民の祝日にしようという動きは、以前からある。2000年からはウェールズ党(Plaid Cymru)が正式に議会(Assembly)を通じて、行動に移している。2006年の世論調査では、87%の人が聖デヴィッドの日を国民の祝日(もしくはバンク・ホリデイ)にしたいと思っているとの結果が出ている。しかしながら当時の首相トニー・ブレアは、このアイデアを却下している。

 聖ノンも聖人として祭られている。聖ノンの日は、3月3日。聖デヴィッドの日から2日後である。ちなみにこの日は日本では桃の節句(ひな祭り)だが、洋の東西を問わず、女性に関係のある日なのだろうか?

象徴 1. 旗
 聖デヴィッドの旗は黒字に黄色の十字架である。これはウェールズの国旗と同等の価値・力を持つ。実際、国旗に赤龍が描かれている関係か、この十字架はイングランドの旗に描かれた「聖ジョージの十字架」やスコットランドの「聖アンドリューの十字架」と同等の扱いをされている。

 (左写真:2007年09月01日、プタリにて撮影)


象徴 2. 紋章
 聖デヴィッドの紋章は、聖デヴィッドの旗をあしらったものだ。この紋章は聖デヴィッズの教区(ケレデイジョン、カーマーゼンシャー、ペンブルークシャー、西グラモーガン)で使用される。

(左写真:2011年08月11日、聖デヴィッドの大聖堂にて撮影)


聖デヴィッドの格言
 次に引用するのは、聖デヴィッドの辞世の言葉である。
気高き兄弟に姉妹よ、喜びたまえ、汝らの信念と信仰を守りたまえ。そして私から聴いた、私が見せてきた、小さなことをなせ。そしてさようなら、汝らの品行が、この世でしっかりしたものでありますように。それというのも私たちは二度とこの世で会うことはないだろうから。
 この言葉のうち、「小さなことをなせ」(Do the littel things / Gwnewch y pethau bychain mewn bywyd)がウェールズの格言・標語のひとつになっている。日本語で「小さなことからコツコツと」という諺があるが、それが近いだろうか。

ラッパ水仙 or 西洋ねぎ<リーク>
 ラッパ水仙(Daffodil)と西洋ねぎ<リーク>(Leek)(下写真、2007年08月11日、アイステズヴォッドで撮影)が、ウェールズの国章になっている。その原典は、聖デヴィッドにあるという。

 ひとつ逸話を紹介しよう。サクソン人との戦いでのこと。ウェールズ人に敵味方の見分けがつくように西洋ねぎ<リーク>を身につけよ、と、聖デヴィッドが命じたという。当時はまだ紋章やそろいのコスチュームがなく、そのため敵味方を見かけで判別するのが難しかった。しかしこのように目印を身につけることで、敵味方が容易にわかるようになったのである。結果、この戦いではウェールズ軍が勝利を収めたといわれる。

 以来、西洋ねぎ<リーク>がウェールズで重鎮されるようになったという。


西洋ねぎ<リーク>(2007年8月11日、アイステズヴォッドにて撮影)

 一説によれば、西洋ねぎ<リーク>を庭で育てると、幸運をもたらし、悪を退けるという。また西洋ねぎ<リーク>は純潔と不死(永遠)のシンボルであり、雷から身を守ると言われる。聖デヴィッドが生まれた時のエピソードを思い出させるいわれだ。

 ラッパ水仙が国章として人気が出たのは、19世紀になってから。この原因には諸説ある。ラッパ水仙のウェールズ語が、「ピーターのリーク」を意味する“Cennin pedr”だったことから、言葉の転用が行われたという説が根強い。しかしながらひとつ、確かなことがある。1911年に、プリンス・オブ・ウェールズの戴冠式が行われた。この際に、ラッパ水仙を使うように薦めたのが、後のイギリス首相デヴィッド・ロイド=ジョージだった。これだけは確実である。

奇跡
 一人の人が聖人として認められるには、奇跡を起こさねばならない。ローマン・カソリックでは3回と規定している。

 実際、聖デヴィッドが起こしたとされる奇跡は数多い。聖デヴィッドが癒しの力を持っていたことは、数多く伝えられている。また大地から聖水を噴出させ、そこに井戸を作らせたことも伝えられている。

 またブレヴィ(下記参照)へ向う途中、未亡人の子供をデヴィッドは生き返らせたと伝えられている。その近くにある教会にFfynnon Ddewiと呼ばれる泉があるが、この泉はその奇跡を子供を生き返らせた跡だといわれる。

 なおこの生き返った子供は、幼い弟子となり、ブレヴィまで同行したという。

 聖デヴィッドの起こした奇跡の中でも有名なのは、そのブレヴィでのことだ。ブレヴィは現在は、サンゼウイブレヴィ<スランゼウイブレヴィ>(Llanddewibrefi)と呼ばれるが、ここでの説教にまつわる伝説が最も有名だと思われる。

 現在、スランゼウイブレヴィと呼ばれる地で、宗教会議が開かれた。ここにデヴィッドも出席。説教をする予定になっていた。

 既にデヴィッドは、周囲ではその名を知られる存在だった。そのためデヴィッドの説教を聴こうと、人々が多く集まった。

 あまりにも群集が多かったため、彼の姿は群集の中に埋もれてしまった。高いところへとあがって話をするようにと聖デヴィッドは言われたが、拒否をしてそのまま話を続けたという。

 だが人々は誰しもが説教をするデヴィッドの姿を拝みたいと思った。そう願っているうちに、デヴィッドの姿が徐々に上にあがってきた――彼が立つ大地が、自然に盛り上がった。そのおかげで群集の誰しもが彼の姿を見、話を聴くことが出来るようになったという。現在でもその地は、丘になっている。





ウェールズ?! カムリ!
写真と文章:Yoshifum! Nagata
(c)&(p) 2012-2013: Yoshifum! Nagata




主要参考文献
The Green Guide: Wales, (Michelin Travel Publications, 2001)
Jones, J. Graham, The History of Wales, (University of Wales Press, 1990)
Rees, Nona, St David of Dewisland, (Gomer, 2008)




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