ウェールズとケルト?
――意外に身近なケルトの国・アーサー王のウェールズ・概観――


この時代はカムリが勇敢に生きた時代だった。
西からのアイルランド人、東からのサクソン人の急襲を打ち負かし、
四方八方からくる海賊たちの略奪を打ち負かした。
この時代はアーサーの時代だった、
彼が一体誰であろうとも・・・
そしてその名はこの小さな国から噴き出し西欧の騎士道精神を触発した。
Jan Morris, The Matter of WALES


アーサー王の宮殿への入り口はない
王の旅をしてまわる子息と音楽をもたらす楽師のための入り口を除いては。
ウェールズの諺より


アーサー王とその騎士たちは私たちの歴史の層を
縫い合わせる 輝く鉱石、
だが彼らは私たちを恥じて寝台に横たわり続けてきた。

R.S.トマス「旅行者に向かい合ったウェールズ人」
(R.S.Thomas, 'A Welshman To Any Tourist', Song at the Year's Turning (1955))



アルスル?!
 この聴きなれない名前アルスルとは、アーサー王のこと。即ち、私たちが慣れ親しんでいるアーサー王という呼び名は、イングランド人の言葉による読みである。ウェールズ語読みではArthurは、A(ア)-r(ル)-thu(ス)-r(ル)即ち、アルスルとなる。


アルスル王を象った像
(ティンターンの廃路線駅で2005年8月に撮影)

アルスルの時代
 アルスル(アーサー王)が活躍した時代は、いわゆるブリテン島で中世が始まる以前の暗黒時代と呼ばれている時代である。この時代は記録が少なく、従って詳しい事実がわかっていない。そのため、アルスルの時代は特定できていないが、もし推定するならばアルスルを取り巻く歴史的事実の年代頼りにするほかない。

 アルスルの時代は、ローマ軍徹底(410年)後、アングロ・サクソン人のブリテン島侵入の時代である。4世紀後半、ヨーロッパ大陸ではゲルマン民族大移動が始まる。アングロ人とサクソン人は449年、ブリテン島に渡り、一方的に占拠をはじめるが、アルスルはこの時騎士を率いて彼らに勇敢に戦い、数多くの勝利を治めたのである。

 ウェールズで宮廷に仕えたバルズ(吟遊詩人)らが、アルスルのことを詠った詩を残している。9世紀から10世紀に詠われたとされる「墓の詩」では、アルスルの墓の場所が問われる。また、主席バルズであるタリエシン(Taliesin)は、アルスルらとともに異界へと旅立ったことを詠った「アンヌンの略奪品」を残している。

 従ってこれらの史実と伝承を考慮すれば、時代は449年以降で、「墓の詩」が詠まれた9世紀以前と大まかに区切ることが出来る。またタリエシン(Taliesin)がアルスルらとともに異界へと旅立ったことを詠った「アンヌンの略奪品」を考慮に入れれば、タリエシンと同時代の6世紀後半とも推定することができる。

註. 「アルスルと初期ウェールズ文学」参照。
アルスルの世界
 アルスルが登場し活躍する世界は、ローマ軍撤退後、そして、アングロ=サクソン人侵略後のブリテン島である。

 現在では「ケルト」の民族名の下に一括りにされがちだが、紀元前300年から100年の間にブリテン島に渡ってきたケルトは、いくつかの部族に分かれ、部族ごとに集団生活を営んでいた。ローマ軍による制圧以前は、ドルイド僧を中心とした集団だったと考えられている1

 ローマ軍がブリテン島のケルトを戦いで破った時、ドルイド僧の力を恐れたローマ軍は、その教えを根絶する。その結果、ドルイド僧はローマ軍に殺戮されるか、捕らえられるか、その二者択一のどちらかの運命をたどることになった。そしてドルイド僧は、根絶やしなったと考えられている。

 そしてローマ軍が本国へと撤退した後は、ブリテン島のケルト民族の生活形態は、王侯貴族を中心とした小さな国家へと変化した。その結果、ブリテン島ではケルトの王国が複数存在することになった。アルスルは、この複数存在する国家のひとつを収める王だったと信じられている。この構図がわかり辛ければ、日本の戦国時代のように、各大名が領地を治めていた様を想像すれば良い。

 アルスルの伝説は、北はスコットランドから、ウェールズをはさんで、南はコーンウォールまで、ブリテン島各地に残っている。この事実からもブリテン島におけるアルスル人気を、伺わせよう。特に有名な城や戦いの跡に関する伝説は、各地に複数残っている。そのため現在でもアルスルの居城(いわゆるキャメロットと呼ばれている城)など、史跡の特定は出来ていない。しかしながら、ウェールズとコーンウォールにその伝説が数多く残っていることから、アルスルが活躍する舞台はブリテン島南西部と考えられる。

註. 「ウェールズに渡ったケルト人」参照。
アルスルの最初の記述
 アルスルの伝説はイギリス、フランス、ドイツ各国で語り継がれ、また、物語りが書かれてきた。だが、その起源はウェールズにある。

 アルスル(アーサー)の最初の記述は、バンゴールのウェールズ人修道士1 ネンニウス(Nennius)が書き、編纂した『ブリトン人の歴史』(Historia Brittonum )(829/30年頃)である。その第73章に、「ブリトン諸王と力を合わせて戦ったアルスル(アーサー)という名の戦闘指揮官がいた」("Then Arthur along with the kings of Britain fought against them in those days, but Arthur himself was the military commander ["dux bellorum"]. ")との記述がある。これが書き記されたものとしては、最古のもの、すなわち、アルスルの文献初登場ということになる。

 アルスルはこの時王ではなく、"dux bellorum"と呼ばれる指揮官と記されている。もちろん彼が闘う相手はローマ軍撤退後に侵入してきたサクソン人(後のイングランド人)であり、ここでのブリテンの王たちとはブリテン島に渡ったケルトの王たちを指す。

 またここには、アルスルの最初の闘いはグレイン(Glein)と呼ばれる河の河口だと記されている。その後の12番目の闘いまで場所が記されており、全てにおいて勝利したと書かれている。

 ネンニウスによれば、アルスルは、537年のカムラン(Camlan)の戦いでメドラウト(Medraut)と相打ちになり、死んだことになっている。その後、アヴァロンに運ばれたという記述はない。

 アヴァロンの島(Yns Afallon)に運ばれたと最初に記したのは、ずっと時代が下った12世紀、モンマスのジョフリー(Geoffrey Of Monmouth)である。

1. 稀に「僧侶」という記述を見るが、NenniusはCeltic monk である。これはローマ・カトリックの修道院で修行をする修道士を意味する。なお僧侶にあたるドルイド僧は、ウェールズがキリスト教化される以前のローマ軍支配と共に皆殺しにされたと伝えられている。詳しくは、ウェールズに渡ったケルト人「宗教:1.ドルイド僧とドルイド宗教 」参照。
アルスルの初登場
 アルスル(アーサー王)の記述は、確かに、ネンニウスのものが一番古い。しかしながらアルスルの文学への登場は、それ以前に遡る。矛盾するようだが、ケルトのバルズと呼ばれる語り部は、口伝のみで歴史を伝えていったために、このような事が起きたのである。

 最も古いアルスルに対する言及は、アネイリン(Aneirin)(535?−600?)によるゴドジン('Gododdin')と呼ばれる詩である。この詩は、594年頃に詠われたと言われている。そこには「彼は城壁で黒烏に餌をやった、その男はアルスルではないけれど」(下線部筆者)とある。これが、アルスル の名への最も古い言及と言われている。

参考:THE MABINOGION, translated by Gwyn Jones and Thomas Jones, (Everyman's Library, 1949), p. xxii


アルスルと初期ウェールズ文学
 アルスル(アーサー王)とウェールズの関連を探る上で、初期ウェールズ文学は欠かせないものとなる。しかしながら前にも述べたような理由から、どれも書き留められたのは12世紀以降ということになる。

 アルスルの名は、中世に書き留められた『カーマーゼンの黒本』『タリエシンの本』『リーゼルッハの白本』『ヘルゲストの赤本』『アネイリンの本』のいずれにも見受けられる。  中でもPa gur yv y porthaur?(「門番もしくは門衛はどんな男だ?」)と、Englynion y Beddau(「墓の詩」)、タリエシンの作とされるPreideu Annwfyn(「異界の略奪品」)は興味深い。

 「門番もしくは門衛はどんな男だ?」は、未完成詩ながら重要な詩である。ここで展開されているのは、アルスル自身と門番(もしくは門衛)との直接対話である。アルスルは門番との対話の中で、自分の従者たちと彼らの偉業をあげていく。したがってこの詩からは、後にアーサー王と円卓の騎士たちとして描かれる、アルスルとその従者たちの原型を知ることができるのである。

 また、「墓の詩」は9世紀から10世紀に詠われたとされる。ここでは墓の名前を挙げていきながら、「世界の不思議はアルスルの墓」と、アルスルの墓の所在が知られていないことを明らかにする。アルスルは12世紀にモンマスのジョフリーによって、死後アヴァロンの島へと行ったと記されたが、以前より墓の所在が不明だったことがこの伝説を生んだ可能性もある

 「異界の略奪品」はバルズであるタリエシン自身が登場する。ここでアルスルとその一向は、ケルトの異界アヌーヴン(Annwfn)に渡り、アヌーヴンの長の持つ魔法の大釡を奪いとることに成功する。しかし無事に現世に帰ることが出来たのは、7人だけだった。そのうちの一人がアルスルであり、もう一人がタリエシンである。

     註・・・ アヴァロンの島はグラストンベリーのトールだったとする説もある。

アルスルと『マビノギオン』
 アルスルは『マビノギオン』全11話のうち、後半5話に登場する。その中でも最も古い話とされるのは、「キルッフとオルウェン」である。自分の従兄にあたるキルッフのために、アルスルとその従者たちは、巨人のイスバザデンを倒すべく、ブリテン島の四方に散り、不思議なものを集めてくる。これが後に、アーサー王伝説の要となる聖杯探索になったといわれている。

アルスルと『ブリテンの王の歴史』
 12世紀に生まれたモンマウスのジェフリー(Geoffrey of Monmouth)(下写真:2005年8月ティンターンの廃線駅で撮影)は、ウェールズ人の歴史を書きたいという熱望を持つ。そして生まれたのが、1136年の『ブリテンの王の歴史』(The History of The Kings of Britain)である。




 ここには、アルスル(アーサ王)のみならず、魔術師マーリンも登場する。ジェフリーはアルスルをブリテン島の王として描き、戴冠したのは15歳だったと記した。そしてアルスルの最後の戦いの後、アルスルの体はアヴァロンに運ばれたと初めてこの本で記されたのである。またこの本では、カーレオン(Caerleon)のローマの円形闘技場がアルスルの円卓だと強調され、世にこの存在が広く知られることになった。


カエルレオンで見たマーリンを象った椅子

 このような事実を踏まえれば、その情報の源が何であれ、現在我々の間に広まっている「アーサー王伝説」は彼の手によって形作られたと見てもよいのかもしれない。

 この本は当時の知識階級の国際語となっていたラテン語で書かれ、ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。ウェールズ語に翻訳されたのは、次世紀の終わりであった。

 なおイギリス文学史上、アーサー王の伝説が扱われた作品の中で、最も早い時期に書かれた作品は、ふたつあげることができる。

 ひとつがパール詩人の「ガウェイン卿と緑の騎士」だ。14世紀後半に書かれたといわれている。もうひとつがトーマス・マロリーの『アーサー王の死』だ。これは15世紀中頃の作品だ。この作品で、カムリのアルスルがブリテン島のアーサー王として初めて登場し、以後、この作品がアーサー王伝説の中心的存在となる。これら2作品の創作年代を考えれば、いかにアーサー王、もとい、アルスルの伝説がウェールズの貴族や民衆の中に根づいたものであったことが知れよう。

アルスルの地位
 アルスルはアーサーとして広く知られるようになってからは、その位が「王」として定着している。しかしながら、先のネンニウスの記録に指揮官("dux bellorum")とあるように、ウェールズの記録や伝承は必ずしもアルスルを王の位にすえていない。『マビノギオン』「ウリエンの息子オウァインの物語、あるいは泉の貴婦人」では、アルスルは「皇帝」("amherawdyr")として登場する。また「エヴラウクの息子ペレドゥルの物語」では、アルスルが人を騎士に任命できるほどの権力をもった、「宮廷」の長であることは疑いない。しかしアルスルを「王」と呼ぶものはいない。アルスルを「王」と記したのは、モンマウスのジェフリー(Geoffery of Monmouth)である。

アルスルは巨人だった?!
 ウェールズ各地に残った伝説によると、アルスルは巨人だったとする説が多い。特に巨人以外ではなせないような、投石の跡などがウェールズ各所に残っている。グイン・ジョーンズ(Gwyn Jones)は自ら翻訳した『マビノギオン』の序で、次のように述べている――「アルスルは民衆の英雄で、慈善の心を持つ巨人で、他の巨人や魔女、そして怪物を土地から排除した」。これらのことを考慮すると、アルスルはケルトの長からブリテン島イングランドの王になる過程で、背が縮んでしまったことになる・・・ 。

アルスルの武具
 『マビノギオン』「キルッフとオルウェン」では、アルスルの刀は「カレトヴルッフ」(Caledfwlch)、槍は「ロンゴミニアット」(Rhongomyniad)、盾は「ウィネブグルスッヘル」(Wynebgwrthucher)と呼ばれている。「カレトヴルッフ」は、サー・トマス・マロリー作の『アーサー王の死』にある、アルスルにとっての2本目の剣となる、後の名剣エクスカリバーになったと考えられる。
註・・・ マロリーの『アーサー王の死』には、アルスルの武器として2本の剣が登場する。1本目が、ロンドンの教会墓地の大理石に刺さっていた剣である。そしてこれを抜いたものが、イングランドの王になるとその刀に金文字で刻まれていた。そのため多くの者が挑戦しては失敗したが、未だ少年だったアーサーが抜いたことによって彼は王として認められた。そして2本目が、湖の貴婦人より授かった聖剣エクスカリバーである。なおウェールズ伝説には、1本目の剣についての言及はない。


アルスルの宗教
 アルスル(アーサー王)は敬虔なキリスト教徒であったことが、既に先の『ブリトン人の歴史』に記されている。曰く、「8番目の闘いはグイニオン(Gunnion)の砦だった。その砦にアルスルは永遠の処女である聖マリアの像を肩に担いで運び込んだ。そして異教徒たちは闘いをその日延期した。そして我らが主イエス・キリスト様とその母であり祝福された乙女聖マリアの力のおかげで、その異教徒達を完全に打ちのめした。」(下線部筆者)。

 即ち、ここでいう異教徒とは敵であるサクソン人を指す。アルスルが彼らを打ち負かしたのは、キリストとマリアの加護を得たおかげ、というくだりからも、アルスルがキリスト教徒であったことがわかる。歴史的事実やマリア信仰から鑑みて、宗派はローマン・カソリックだったと思われる。

 アルスルがキリスト教徒であったという事実は、非常に興味深い。それは、逆に言えば、アルスルが実際に活躍したと思われる5−6世紀には、既にドルイド宗教が失われていたことを示すからだ。

註... 現在キリスト教を国教とするイングランド人だが、彼らの祖先となるアングロ・サクソン人にキリスト教(ローマン・カソリック)が布教されたのは、アイルランドやウェールズのそれよりもかなり時代が後に下り、6世紀と言われる。一説によれば、アングロ・サクソン人の改宗は遅々として進まず、彼らが全面的に改宗したのは9世紀だったとも言われる。
アルスルの妻
 『マビノギオン』「キルッフとオルウェン」に、アルスルの妻としてグウェンホヴァル(Gwenhwyfar)の名があがる。彼女は、後のアーサー王伝説のグウィネヴィアと同一視される。だが、『マビノギオン』にはマロリー作『アーサー王の死』にある王妃と騎士の不倫の恋は、描かれていない。王妃と騎士の道ならぬ恋の物語は、アーサー王伝説がヨーロッパに渡り、かの地でロマンス文学として花開いた時に生まれたのだろうか。

アルスルの子
 アルスルの子がネンニウスの『ブリトン人の歴史』第73章第13の驚異1に、アムル(Amr)として登場する。

 理由は不明だが、アムルはアルスル自らの手にかかって殺され、そして、埋葬される。その墓を計ると、必ず異なる結果が出る。ネンニウスは自ら数回計測し、その度に異なる結果が出たと書いている。

 なお彼は『マビノギオン』「エヴラウクの息子ペレドゥルの物語」に登場するアムハル(Amhar)と同一人物と推測される。

 また、アムルとメドラウトの双方のイメージから、不吉なモードレッド2が生み出されたとする説もある。

1.『ブリトン人の歴史』でアルスルに対する言及があるのは第67-75章である。これらの章は20の「驚異」から成り立つ。最初の4つの驚異のみ番号がふられており、それ以降は「もうひとつの驚異は・・・ 」という書き出しで始まっている。

2. モードレッドはトーマス・マロリー作『アーサー王の死』でアーサー王を倒した人物として描かれている。


アルスルの犬
 アルスルは稀に犬と一緒にいる姿を描かれる(同ページ内「アルスル?!」参照)。アルスルは猟犬を飼っていたからだ。名をカバル(Cabal)という。

 ネンニウスによれば、次の伝説が伝わっている。トロイント(Troynt)と呼ばれるイノシシ(boar)を狩った際に、カバルは命を落とす。だがその前に、カバルは石に自分の足跡を残した。アルスルは後に、そのカバルの足跡のついた石の下に、石の塚を作った。そうすることでカバルの足跡のついた石が、塚の頂におかれるようにしたのである。

 不思議なことにこの塚を崩したり、カバルの石を取り除いても、一夜明ければ元の状態に戻っているという。この塚はカルン・カバル(Carn Cabal)と呼ばれる。

アルスルからアーサー王へ
 ケルト民族ブリトン人の長アルスルが、ブリテン島の王アーサーになるには、ヨーロッパ大陸を経由してからのこととなる。

 モンマスのジョフリー(Geoffrey Of Monmouth)が1136年の『ブリテンの王の歴史』(The History of The Kings of Britain)でアルスルのことをラテン語で記したことは、上記の通りだ。アーサー王の誕生から、戴冠、王妃グウィネヴィアとの結婚、そして、甥モルドレッドの反乱と鎮圧による致命傷などがここで成文化される。これがヨーロッパ大陸に衝撃を与える。そしてこの作品を、ロベール・ワースがフランス語韻文に翻訳した。ここで初めて円卓が登場するのだが、この翻訳のおかげで、一躍アルスルの存在が世に知られるようになる。

 当時、ヨーロッパ大陸ではロマンス文学と呼ばれる、騎士道や宮廷の恋愛を扱った物語詩が流行していた。ここにアルスルは入りこむのである。ローベルのフランス韻文訳から、イングランドの詩人ラヤモンが「ブルート」(1190年ごろ)の題の下、英語訳。そして14世紀中世英語詩『アーサー王の死』(Morte Arthure)、13世紀フランス語散文物語「メルラン続編」、13世紀フランス語散文「湖のランスロ」、13世紀フランス語散文「トリスタン」、13世紀フランス語散文「聖杯の探求」「アルチュールの死」などが登場する。ウェールズの伝説になかった部分が加わり、無骨な伝説はロマンス文学として洗練される。これらをつなげ、散文の物語としたのが、イングランド人のサー・トーマス・マロリーである。

 こうして、Arthurは「アルスル」ではなく、「アーサー」と読まれるようになった。この過程において、Arthurはブリトン人の長アルスルから、ブリテン島の王アーサーとなったのである。

アルスルのウェールズ
 アルスルに関する名所・旧跡は、ウェールズの各所に残っている。また中には、かつてはアーサー王の円卓だと信じられていたカエレオンのローマ円形闘技場跡(下写真:2005年8月撮影)のように、後の調査(1926年)でアルスルとは無関係であることが判明した場所もある。ここでは、ウェールズ内で現在でもアルスルに縁のあると言われている場所を、挙げてみよう。



 ボシャストンのセント・ゴヴァーンズ岬の礼拝堂は、地元の伝説ではアルサルの甥であり、騎士のガウェインが、アルサルの死後、隠遁生活を送ったとされる。しかしながら諸説によるとガウェインはアルサルよりも先に死んでおり、これらの説と地元の伝承は矛盾する。

 円卓の騎士が探し求めた聖杯は、今やミュージック・アイステズヴォッドで有名なスランゴスレン(Llangollen)にある、ブランの町の城(カステル・ディナス・ブラン;Castell Dinas Bran)にあったとされる。

 アルスルの武器である聖剣エクスカリバーは、湖の貴婦人から授かりものだ(註:ウェールズ伝説に登場するこの聖剣に関しては、同ページ「アルスルの武具」参照のこと)。アルスルはこの剣を使い、数々の敵を倒していったのだ。そして致命傷を負った後、円卓の騎士の一人に命じ、それを元の湖に返した。

 だが、困ったことにその湖が特定されていない。ゆえにウェールズの中だけでも、その湖に関する伝説が複数残っている。
 ボシャストンのリリーポンズ湖(Lily-Ponds)は、そのひとつだ。アルスルはこの湖で聖剣エクスカリバーを授かり、致命傷を負った後、アルスルの宮殿で再三活躍するベドウィル(Bedwyr)が、エクスカリバーをここに返したと地元に伝わっている。

 リリーポンズの伝説とは矛盾するが、その伝説の剣エクスカリバーが鎮められたとされる湖は、スノードニア山脈にあるオグエン湖(Llyn Ogwen)とする説もある。こちらも先の伝説と同様、カムランの戦いの後、アルスルの命を受けたベドウィルがエクスカリバーをこの湖に投げ込んだという。

 同じスノードニア山脈内だが、アルスルがエクスカリバーを授かり、返したのはスリドー湖(Llyn Llydaw)とする説も残っている。

 スノードニア山脈には、他にもいくつかアルスルに関する伝説が残っている。この麓にあるディナス湖(Llyn Dinas )の近くで、アーサーの騎士の一人であるオゥエイン(Owein)と巨人が戦ったとされる。

 ウェールズの伝説には、巨人がしばし登場する。アルスル自身が巨人だったという説もあるほどである。

 リタ・ガウル(Ritta Gawr)もその巨人の一人だ。リタは王のあごひげを戦利品として集めるという、いささか変わった趣味を持つ巨人だった。そのリタをアルスルが打ち負かし、遺体を埋めた場所が、かのスノードニア山脈の中で最も高い標高を誇る山の山頂、すなわち、スノードン山の山頂だった。現在、この山の通り名となっているスノードン(Snowdon)とは、アングロ=サクソンが英語でつけた名前だが、この山は元来ウェールズ語でYr Wyddfaと呼ばれていた。その意味は「古墳」である。すなわちスノードン山は、巨人リタの墓なのだ。

 アルスルはカムランの戦いで傷つき、死ぬ。そして死後アヴァロンの島に行ったというのが定説である。現在、アヴァロンの島はグラストンベリーだったとするのが、定説だ(同ページ内「アルスルと初期ウェールズ文学」参照)。
 しかし、アヴァロンの存在がはじめて記されたのは12世紀だ。そのためか、アルスルの墓や眠る場所と言われる場所はウェールズ内にも複数存在している。ケヴン・ブリン(Cefn Bryn)にある「アルスルの石」(Arthur's Stone もしくは Maen Ceti)(下参照)の下には、アルスルの墓があると信じられていた。また、イングランドとウェールズのまさに国境に建つチェプストゥ城(Chepstow Castle)の地下には、アルスルと円卓の騎士が眠るという洞窟があるという。位置としては、城が建つ崖の丁度中心に当たるとか。

   アルスルが投げたとされる岩/石は、数多く残っている。ガウワー半島のちょうど中央に位置するケヴン・ブリン(Cefn Bryn)にある「アルスルの石」(Arthur's Stone もしくは Maen Ceti)は、その一つである。伝説によれば、アルスルはカムランの戦いに出かける途中、カーマーゼンシャーからケヴン・ブリンまで岩を投げたという。だが残念ながら、現在ではこれは古代人の埋葬塚だったことが判明している。
 このように古代人の石を使った埋葬塚が、アーサーの投げた石だと思われている場所は他にも存在する。イングランドとウェールズの国境に近い、イングランドの村ドーストーン(Dorstone)には、その名もずばり「アーサーの石」という地名がある。実際にそこには石があるが、これも埋葬塚である。

 アングルシー島のマイン・コッイヴ(Maen Chwyf)もしくは「アルスルの輪」(Coetan Arthur)も、アーサー王が投げたと言われる石だ。これと同様、「アルスルの輪」(Coetan Arthur)と呼ばれる古代埋葬塚は、セント・デイヴィッズ・ヘッド(St. David's Head)やスリン半島(Lleyn Peninsula)のペンスレクハッ(Penllech)の近くにも存在する。ニューポート(ペンブルックシャー)(Newport (Pembrokeshire))にあるものは、特に「アルスルの石輪」(Carreg Coatan Arthur)と呼ばれている。
 これらの名前でいずれも出てくる“coetan”とは、現在は、輪投げで使用する鉄輪を意味するウェールズ語だ。ゆえにどの伝説も、これらの石や岩をアルスルが戯れに投げたことを告げている。

 カーマーゼンのウェールズ語名カーフィルジン(Caerfyrddin)は、「マーリンの砦」を意味する。カーマーゼンには魔術師マーリンのものとされるオークの木があったが、道路拡張の際に切られてしまった。


マーリンのオークがあった四辻を描いた絵
(クリックで拡大)

 バージー島(英語名Bardsey Island、ウェールズ語名Ynys Enlli)は、アーサー王の死後、魔術師マーリンが余生を送った場所だと言われている。マーリンは360度、70もの窓のある観測所で隠棲したといわれ、その窓を通じてマーリンは星々を観察し、世の洞察を知ったという(現在形の可能性あり)。またこの島にはアルスルの透明マントなど13の宝が隠されており、マーリンはその番人をしているという伝説もある。


ディナス湖

バージー島

スリダウ湖*

スノードン山の山頂へと向かう人々*
(写真上部塚上のものが山頂)

セント・ゴヴァーンズ岬の礼拝堂

「アルスルの石輪」(ニューポート)

ブランの町の城**

チェプストゥ城*


崖の上に建つチェプストウ城*
下を流れるのはワイ河である。

マーリンのオーク(カーマーゼンの市庁舎にて)***


いずれも2004年撮影(*は2005年、**は2006年、***は2011年)


アルスルの最期:スノードン
 アルスルの最期は、いくつか話が伝わっている。ここではそのひとつとしてスノードンに伝わる、民間伝承を紹介する。

 アルスルがサクソン人をウェールズの領土から追いやった後のこと。しかしながらこの戦いは長すぎ、既にアルスルやその円卓の騎士も若くはなかった。その円卓の騎士の中に、裏切り者のモルドレッド卿がいた。モルドレッド卿はアルスルが年老いたことを好機とみなし、密かにサクソン人の軍隊にメッセージを送った。そこにはもし挙兵し、自分の味方になるならば、モルドレッドの兵も加わり、一緒にアルスルを斃そうとあった。

 はたして、サクソン人は挙兵した。北ウェールズより侵入し、スノードンの御膝元クム・スラン(Cwm Llan)のトレガラン(Tregalan)に野営した。アルスルはその軍を討つべく、騎士を従え、向かった。

 そして戦いが始まった。冬の寒い日だった。暗い夜明けから、日が陰っても戦いは続いた。

 アルスルとその騎士たちの力は、かろうじてサクソン軍を上回った。アルスルらはサクソン軍をスノードンとスリウエズ(Lliwedd)の間にある丘まで追いつめた。だが夜の帳が深く下りた頃、悲劇が起きた。冬の厚い暗闇の中、アルスルの命が絶たれたのである。

 サクソン軍が偶然放った矢が、アルスルを貫いたというものもいる。またブルッヒ・ア・サイサイ(Bwlch-y-Saethau)で、モルドレッドとアルスルが対峙し、先手を打ったモルドレッドの刀の一撃がアルスルの致命傷となったというものもいる。だが実際のところ、何がアルスルを死に追いやったかは不明である。

 地元の言い伝えによれば、アルスルの死後、その亡骸を重臣ベディヴェレ卿(Sir Bedivere)がスリダウ湖に運び、そこで船に乗せた。その船には3人の美女乗っており、その美女たちがアルスルを夜霧の彼方へと運んで行ったという。





ウェールズ?! カムリ!
写真と文章:Yoshifum! Nagata
(c)&(p)2004-2013: Yoshifum! Nagata




主要参考文献
『マビノギオン 中世ウェールズ幻想物語集』、中野節子訳、(JULA出版局、2000)

The Green Guide: Wales, (Michelin Travel Publications, 2001)
The Mabinogion, translated by Gwyn Jones and Thomas Jones, (Everyman's Library, 1949)
Gregory, Donald, WALES: LAND OF MYSTERY AND MAGIC, (Carreg Gwalch, 1999)
Jones, J. Graham, The History of Wales, (University of Wales Press, 1990)
Matthews,Caitlin, Mabon and the Guardians of Great Britain, (Inner Traditions International, 2002)
Matthews, John, with additional material by Caitlin Matthews, Taliesin The Last Celtic Shaman, (Inner Traditions, 1991)
Morris, Jan, The Matter of WALES, (Penguin Books, 1984)
Styles, Showell with Henry Srilwell, North Wales Walks & Legends, (Sigma Leisure, 1972-2002)




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