ウェールズを知る
――ウェールズ語に関する情報――

ウェールズにおいてウェールズ語を復活させることは、
革命に他ならない。私たちが成功するには革命という手段を通じてしかない。
ソーンダース・ルイス、「言葉の運命」(Tynged Yr Iaith)(1962)

「ウェールズ人とはなんぞや?」と訊ねられる時、私はいつも次のように答える
ウェールズ語を喋る人だ、と。

R.S.トマス、「もしその言語が自分のものならば・・・ 」(Pe Medrwn yr Iaith)(1988)

私たちは子どもをウェールズ語を喋るように育てる
ウェールズ語のためでなく、わが子どもらのために。

ヨアン・ボウエン・リーズ、「今日のウェールズ『国か市場か?』」(1990)




起源
 ウェールズ語は、ケルト語をその祖先に持つ。中でもブリトン語(後述)からの直系といわれる。したがってゲルマン語族の英語とは全く異なる言葉である。

 ところでブリテン島およびアイルランドにヨーロッパ大陸より海を超えて渡ってきたケルトは、ゲール人とブリトン人だと言われている。後にウェールズを形成することになる、ブリトン人が喋っていた言葉がブリトン語だ。

 ところでブリテン島およびアイルランドで浸透したケルト語は、このブリトン語と、アイルランドに渡ったゲール人が使用したゲール語のふたつのグループに大別できる。これらはそのつづり字の特徴から、前者をPケルト語と、後者をQケルト語と分けて区別することもある。先に記したようにウェールズ語はブリトン語から主に形成されたが、6世紀頃アイルランドから渡ってきたゲール語の影響も受けている。即ち、ウェールズ語は、これらケルト語の両グループから生まれたといっていいだろう。

註・・・ ケルト語はインド・ヨーロッパ語族より枝分かれ(分派)したものと考えられている。これが更にふたつに分かれるのは、世代のことなるケルト人が異なる言葉を使っていたためである。そのため現在では、これらの言葉をゲール語とブリトン語として区別している。少々乱暴な言い方をしてしまえば、アングロ・サクソン族の言葉に起源を持つ英語(English)が、現在、クイーンズ・イングリッシュ(イギリス英語)とアメリカン・イングリッシュ(アメリカ英語)に分かれるのと同じである。
 後にアイルランド、スコットランドを形成することになるケルト人(旧世代)はゲール語を使用し、ウェールズやコーンウォールを形成することになるケルト人(新世代)は、ブリトン語を使用した。前者ゲール語がQケルト語と、後者ブリトン語がPケルト語と区別されるのは、ある特定の音に対して、スペルをQとあてるか、Pとあてるかによって区別される。
  例:古インド・ゲルマン語のe uos(「馬」の意味)の“K”をゲール語では“Q”を使用し、e uosとつづる。対してブリトン語では、同じ“K”に“P”をあて、eosとつづる。(斜体部筆者)


ウェールズ語禁止と復活の概略史
 ●ウェールズ語の禁止と教会
 ヘンリー8世が、1536年にウェールズをイングランドに統合する。同時にイングランドの法律が、ウェールズの法律に取って代わった。その結果、公の場でウェールズ語の使用が、法的に禁じられた。

 ウェールズ語の存続が危ぶまれたのは、想像に難くない。だが時運が味方した。

 実にその禁止の2年前、1534に英国国教会が設立された。英国国教会は、史上初の英語の祈祷書と聖書を使う宗派である(それ以前はラテン語が使用されていた)。だがウェールズでは、英語そのものが“外国語”であり、なじみない言葉であった。そのため、教会の中でのみウェールズ語の使用が認められたのである。このため危惧されたウェールズ語の消失は、回避された。

 また急速にその勢力を拡大しつつあった英国国教会では、ウェールズでの布教を潤滑に進める目的で、1563年にエリザベス女王がウェールズ語への聖書の翻訳を司教達に命じた。その結果、ウィリアム・ソールズベリー(1520-1584)によって祈祷書と新約聖書のウェールズ語訳が出版されるが、実際には使いものにならない代物だった。

 その後、牧師ウィリアム・モルガン(1545-1604)が、エリザベス女王にウェールズ語への聖書の翻訳の許可を申し出た。許可が出るとモルガンはLlanrhaeadr-ym-Mochnant村の山にこもり、聖書のウェールズ語への翻訳作業に入る。そして1年間のロンドンでの作業も含みながら、1588年にウェールズ語訳聖書が完成する。このおかげで、今日、ウェールズ語は生き延びることができたのである。

 16世紀の間には、聖書の翻訳の他、文法書、辞書が編纂されたが、ウェールズ語を喋る人の数は目に見えて激減していった。教会の学校でウェールズ語が教えられるようになるのは、この頃からである。

 ●初の英語-ウェールズ語辞書
 初の英語-ウェールズ語の辞書は、シオン・ライゼルッヒ(Sion Rhydderch)(英名:ジョン・ロデリック/John Roderick) (1673-1735)によって1725年に編纂された。ウェールズ語の存続はこの辞書によるところが大きいとする説もある。なおこのシオン・ライゼルッヒは、初の包括的なウェールズ語の文法書も上梓している。

 ●ウェールズ語衰退の始まり
 だが18世紀後半、産業革命を迎えると、事態がさらに悪くなる。産業革命と同時に石炭などの資源が豊富なウェールズに、イングランドをはじめヨーロッパの諸外国から移民が流入してきた。これにより、ウェールズ語の人口よりも、英語の人口のほうが逆転して多くなったのである。

 また政府が1847年に発行した通称『青本』1は、ウェールズ語を徹底的に非難、撲滅を図った。これに便乗した/洗脳された教育者らが、英語有利説を説くばかりか、実践に移る2

 これらの状況からウェールズ語よりも英語のほうが仕事につきやすいなどの経済的および社会的な理由から、ウェールズ人たちの間にもウェールズ語が不要のものと考える者が現れはじめた。彼らは「ウェールズ語禁止」(Welsh Not)なる運動3をはじめる。そして1891年の調査ではウェールズ語の使用者は54%ととなり、1901年までにはウェールズ語を話す人はウェールズ人全体の5割以下まで落ち込んだ。この裏には医療技術の発達により新生児の出生率が死亡率を上回り、英語単一話者が台頭したことや、教育の現場での徹底された英語教育の結果がある。

★1. 青本
 正式名称は『ウェールズにおける教育の状態への調査委員会の報告書』(Reports of the commissioners of enquiry into the state of education in Wale)。1847年イギリス政府による発行。ウェールズ語撲滅のために行われた1846年の調査内容を、全3巻にまとめたもの。当時のウェールズ人はウェールズ語の単一話者が多かったにも関わらず、質問は全て英語で行われた。その結果は、ウェールズは「教育が悪く、貧相で不潔、みだらで(政府に対する)反抗/反逆の可能性あり」とまとめられた。この本の表紙が青かったため、通称で『青本の裏切り(略して『青本』)』(Brad y Llyfrau Gleision/Treachery of the Blue Books )と呼ばれる。

★2. 英語有利説
 先の『青本』に影響を受けた人を中心に広まった。特にウェールズ人の家に嫁いだイングラン人レディ・シャーロット・ゲストは、ゲスト家が経営する学校(当時は私立が多かった)で英語教育を強化・促進。年端もいかぬ子供らに、自分たちとその親らの言葉であるウェールズ語を徹底的に否定した。

★3. Welsh Not(ウェールズ語禁止)運動
 悪名高き運動。先の『青本』の影響もあると言われる。ウェールズ語を喋っている子供を見つけると、その子供の首に“Welsh Not”と書かれた板切れを紐でかけた。この板をはずしてもらうためには、他のウェールズ語を喋っている子供を見つけ、告げ口をしなければならない。この運動の結果、それまで以上にウェールズ語のイメージが大幅に悪くなったと言われる。
 ●ウェールズ語復興運動の始まり
 19世紀前半には、ウェールズ語は既に時代遅れの言葉とされていた。しかしながら、1877年にマーサー・ティドヴィルの有力者の嫁であったレディ・シャーロット・ゲストが立役者となり(金銭的・政治的理由が介在したのかもしれない)、バルズでもあったジョン・ジョーンズ(1792-1852)らの全面的協力を得て、ウェールズ最古の伝説のウェールズ語から英語への翻訳本を出版する。これが『マビノギオン(Mabinogion)』である。

 この初版の特徴は、何といってもウェールズ語の原文と対訳の英語が、左右それぞれのページに併記されたことだろう1。時は太古や神秘の時代へと関心が集まっていたロマン主義の時代。この本に注目が集まるのも、時間の問題だったことだろう。

 そしてこの本を通じ、ウェールズ語文学に注目が集まるようになる。この注目は、ひいては、ウェールズの文化とそれを育んできたウェールズ語への関心を引き起こした。そして、ウェールズ語はウェールズへの愛国心の象徴として見られるようになった。

 また19世紀の終わりごろから現れた、高等教育を受けた新しい世代を中心に、ウェールズの王国の復活と、ウェールズ人のアイデンティティの復活を求める運動が起こる。そして自分たちの文化が失われることへの恐れから、学校でのウェールズ語の教育促進が唱えられるようになる。1885年には、これらの声を受け、最初のウェールズ語協会が設立された。しかしこの協会は、創始者であり指導者のダン・アイザック・デイヴィス(Dan Isaac Davies)(1812-1888)が死去すると、消滅した。

1・・・ ウェールズ語の原文と英語の対訳が併記されたのは、初版のみであった。2版では、ウェールズ語の原文は容赦なく削除された。以降、重版を重ねているが、ウェールズ語の原文は併記されていない(初版の復刻版を除く)。
 ●20世紀に入って――その減少
 第1次世界大戦後、政治的な愛国心が高まり、1925年にウェールズ愛国党(Welsh National Party;後のPlaid Cymru)が結成された。
 しかしながら、ウェールズ語使用者の割合は減少する。人口調査で見てみよう。1931年の調査と1951年の3歳児以上を対象にした調査を比較すると、ウェールズの人口はともに247万人でほぼ変化がない。しかしウェールズ語の使用者を比較すると、21.4%も減少した。ウェールズ語のみの使用者に至っては、58%もの大幅な減少が明らかになった(下表参照)1

- 1901 1911192119311951
ウェールズ語の使用者(全体)(%)49.943.537.1 36.828.9
     ウェールズ語のみ(%)15.18.56.3 4.01.7
     英語とウェールズ語(%)34.835.030.8 32.827.2


 ●言葉の運命
 1961年の人口調査では、ウェールズ語使用者の割合はさらに減少し、ウェールズ全人口の26%にまで落ち込んだ。これを受けて、劇作家・文芸批評家でもあり、ウェールズ国民党代表を務めたこともある(1926-1936)ソーンダース・ルイス(John Saunders Lewis)(1893-1985)が立ち上がった。1962年2月13日、ルイスは「言葉の運命」(Tynged Yr Iaithと題した歴史的な放送を行う。ここでルイスは、死に絶える運命にあるウェールズ語の復活を求めて、ウェールズの民に対して熱く説いたのである。

 ●“非暴力的組織”ウェールズ語協会の誕生
 1962年8月4日、サンダース・ルイスの「言葉の運命」を受けて、愛国者らからウェールズ語協会(Cymdeithas yr Iaith / Welsh Language Society)が組織された。「非暴力的活動」を謳った協会だったが、デモ行進や実力行使も辞さない彼らの行動(実際に1963年2月には、アベリトウィスのトレヴェクハッン橋(Trefechan Bridge)で座りこみ抗議行動を行い、英語の道路標識の上にウェールズ語を重ね書きした)は、一般民衆からすれば「過激な行動」とも映った。

 ●ふたつのウェールズ語法案とウェールズ語使用者数
 そして1967年7月27日、ウェールズ語法案がイギリス議会で通過する。ウェールズ語は公用語として、一部限定つきではあるが、イングランドに正式に認められたのだ。そして1988年7月には、ウェールズ語委員会(Welsh Language Board)が設立される。この時は政府に助言を与える、諮問機関であった。一方、この間もウェールズ語使用者の減退は、避けられなかった。1961年にはウェールズ語の使用者は全人口の26%だったが、71年には20.8%となり、81年には18.9%という数字を記録する。

 ウェールズ語委員会の強い運動の結果、1993年12月に、1967年の限定がはずれ、ウェールズ語が完全に公用語として認められた。これにより、ウェールズ語は英語と同等の力を持つことが出来るようになる。そして同時に、ウェールズ語委員会が正式な政府機関として発足した。

 2001年の国勢調査では、学校でのウェールズ語教育の成果も上がり、ある調査では若い世代のウェールズ語を喋る人の数が、ウェールズ語の教育を受けていない中高年の数を上回っているという。

 しかしながら、ショッキングなニュースが届いた。2011年の国勢調査の結果では、ウェールズ語話者の割合が、2001年の20.5%より1.5%減退の19%となった。話者のみならず、ウェールズ語の三技能(話す、読む、書く)ができる人の割合も、16%より15%に減退。まさか、である。ユネスコによるウェールズ語の存亡への警鐘(「2011年ウェールズ語危機への傾斜 」参照)が、現実のものとなった。ウェールズ語暗黒時代へと、再び傾斜か?

 しかしながら、それでも、明光はわずかながらある。2011年の国勢調査の結果では、ウェールズ語三技能を持つ人の割合が一番多いのはグイニッズであることが判明した(56%)。ここでは10歳から14歳の若者が、88%がこの三技能を持つと答えている。これは学校でのウェールズ語教育が成功しつつあることを示している。

 だが一方で、これは学校の中だけのものとする主張する人も少なからずいる。彼らの言い分は、ウェールズ語が社会で使われなければ意味がないという。

 確かに、これには一理ある。だが、それでも、この数字は明光だと思う。いや、思いたい。それというのも、彼ら/彼女らの中から、将来のウェールズ語の未来を担うものが出るはずだからだ。学校教育で言葉を習得したものの強みは、自分の学校教育の経験の良い点・悪い点をいかし、その言語を教えることができることだ。

 一度失われかけたものを再び取り戻すには、根気と、長い年月が必要だ。時に、気の遠くなるほどの世代を経て、それは可能となる。だがウェールズは、かつて、「ウェールズ語滅亡」といわれつつも、その話者数を回復した。時間はかかる。だが、それを実現させる。それがウェールズだ。

1・・・ Report on 1951 Census(Welsh Language Board, 1955), p.8の表より作成。調査の対象は3歳児以上となっている。なお1941年は第2次世界大戦の影響により、人口調査は行われなかった。

言葉の運命(Tynged yr Iaith)
「ウェールズでウェールズ語を回復することは、革命の他ならない。われわれが成功しうるには、革命的な方法を通じてのみである。」
 1962年2月13日、国営放送BBCウェールズを通じて行われた、ソーンダース・ルイスによる歴史的ラジオ講演。上に挙げた引用は、その放送からのものである。

 ここでルイスは、1536年の連合法以来のイギリス政府によるウェールズ語に対する否定的な態度と、その後ウェールズ人自身がとってきた態度を分析した。その上でウェールズ語がしゃべられている地域における地方自治体と中央政府の双方で、行政はウェールズ語で行われるべきだと述べた。

 さらにルイスは、ラジオの前の聴衆に対し、書類や税、そして免許がウェールズ語を媒体として作られていなければ拒否するようにと呼びかけた。


歴史的なラジオ講演「言葉の運命」を、丸々収録したCD。
全1トラック、46:27収録。
(Sain / SCD2361)

ウェールズ語協会(Cymdeithas yr Iaith Gymraeg)
 ウェールズ語協会(Cymdeithas yr Iaith Gymraeg)は、愛国者らによって組織・運営される団体。サンダース・ルイスの「言葉の運命」を受け、結成された。結成は1962年8月4日。プライド・カムリ(ウェールズ党)が主催したポンタルジライス(Pontarddulais)での、サマー・スクールでのことだった。

 政治的な組織、それも、愛国者らによる組織とくれば、アイルランドのIRAなどに見られるように、暴力行為をいとわない過激な組織が多い。その一方でこのウェールズ協会は、“非暴力組織”であること宣言。ゆえにその活動も、座り込み運動やデモ行進、各種フェスティバルや運動などの計画・運営などに留まる。つまり爆破を含むテロ行為には加担しない組織である。

 彼らの最初の行動は、1963年2月のアベリトウィスのトレヴェクハッン橋(Trefechan Bridge)で座りこみ抗議行動だった。この後1960年代から1970年代にかけて、同様の抗議行動が行われた。

 1963年にはアベリストウィスでの郵便局で、ウェールズ語の公用語化(Official Status for Welsh Language)を求めた内容のポスターを張った。これはアメリカの公民権運動に影響を受けてのものだった。

   また今でこそ、ウェールズ国内には英語とウェールズ語の二重表記をした交通標識が溢れる(同時にウェールズ名物にもなっている)。だがウェールズ語協会結成当初は、交通標識は英語のみだった。公の機関では英語しか使えなかった故である。


今でこそ二重表記は当たり前だが・・・
(撮影:カーナヴォン、2011年8月12日)(クリックで拡大)

 彼らはこれに対し、ウェールズ語表記の交通標識を求めた。メンバーの中には、英語表記の標識の上にペイントをしたり、標識そのものを破壊するものすら出てきた。これらの行動に対し、ウェールズ語法案通過後、正式にウェールズ語と英語の二重表記の交通標識が作られるようになった。


二重表記による交通標識の一例(撮影:カーナヴォン、2011年8月12日)(クリックで拡大)

 結成当初のメンバーの中には、フォークシンガーで政治家でもあるダヴィズ・イワンも含まれる。当時イワンは、まだ大学生だった。だがイワンは程なくしてウェールズ語協会の中でも、力のある位置を手に入れる。その結果、ウェールズ語を使った音楽のフェスティヴァルが、数多くウェールズ語協会の手によって開催されることとなる。このためウェールズ語で歌うシンガーやバンドらは、その政治的意図の有無を問わず、世間より政治的な意図があるようにとらえられた。

ウェールズ語教育
 ウェールズ局(Welsh Department)とウェールズ省(Welsh Office;かつてイギリス政府内にあったウェールズを担当する部門。ウェールズ議会にその仕事は引き継がれた)は、第2次世界大戦終結より小学校および中学校におけるウェールズ語教育を推してきた。この省の働きかけから、1956年にフリントシャーに最初の英語とウェールズ語のバイリンガルで教育を行うYsgol Glan Clwydが開校した。

 かつては英語が就職の鍵だったが、徐々に第2次世界大戦以降、ウェールズ語が雇用の窓口を広げるという考え方が出始める。ウェールズ語教育が行われる学校の需要も増す。その結果、1951-81年の間、ウェールズ語の話者数が減少する一方で、ウェールズ語教育を行う学校の設立は増加していった。実際に1956年にはウェールズ語教育をおこなう学校は先のフリントシャーのYsgol Glan Clwydのみだった。だが1990年には、20校へと増加。生徒数も1970年の2017人から1990年の12475人へと増えている。1975-80年には、クロイド(Clwyd)では95.5%の学校でウェールズ語が第一言語もしくは第二言語として教えられていた。

 ウェールズ語のみで教育を行うか、ウェールズ語を学校での第一言語として教育を行っている小学校は、ウェールズ内全小学校のうち1990年の25.9%から1994年の27.5%へと増加。一方で、ウェールズ語を教えていない学校は1990年の14.2%から1994年の1.6%へと大幅減少している。

 ウェールズ語を教える、もしくは、ウェールズ語を媒体として教育する教育機関が増加するというのは、ウェールズ語の使用推進のためには、非常に有利である。しかしその一方で、「学校の中だけのもの」となってしまう恐れがある。すなわち、日常生活で言葉が使用されなければ、言葉が真の意味で使用されているとは言えない。そこで2010年12月13日、ウェールズ議会は「生きている言葉。生活のための言葉」(A Living Language: A Language for Living.)というキャンペーンを始めた。端的に言えば、学校のみならず、職場や地域でのウェールズ語使用を促進し、言葉そのものの価値を高めようというものである。

ウェールズ語の現在
 現在、ウェールズに住む人の約2割程度が、ウェールズ語を喋ることが出来ると言われている。南に行くほどその割合は低くなり、逆に北では高くなる。また、東西に見た場合、イングランドに近い東より西のほうが喋る人の割合も高い。すなわち、南より北、東より西の方が、喋る人口の割合が高いのが地理的特長である。同時にこのことは、南より北、東より西のほうがウェールズらしい文化が残っていることの現れともなる。

 特にウェールズ語を日常的に喋る人々は、北西ウェールズに集中している。ある統計では南ウェールズの喋る人の割合が0〜2割であるのに対して、北ウェールズでは軒並み4割以上、そして特に北西ウェールズのスリン半島やアングルシー島では、その割合は7割を超える。

マスメディアとウェールズ語
 現在、若者のウェールズ語への関心を引いたのは、マスメディアによるものとする説もある。1969年のウェールズ最有力レコード会社サイン(Sain)・レーベルの設立を皮切りに、1977年にウェールズ語専門のFM放送局BBCラジオ・カムリ(BBC Radio Cymru)が設立され、翌78年11月13日午前6:30に放送が始まった。

 しかしそれでもテレビでのウェールズ語放送の時間は、少なかった。1年間にたった53時間だったのだ。愛国者を中心に、政府への圧力が続く。そして時の首相であり、その改革から鉄の女と言われたマーガレット・サッチャーがウェールズ語専門放送局の設立を許可する。そして1982年11月1日に、ウェールズ語のテレビ放送(S4C)('Sianel Pedwar Cymru')が始まった。これによりウェールズ語放送の時間は、500時間以上まで増大する。
 S4Cは週に22時間、主にピークの時間帯を中心にウェールズ語の放送を行っている。

 またS4Cは開局当初から若者文化に注目。その中でもロックやポップスに注目し、ウェールズ語のバンドを番組に登場させるなどして後押しし始める。このおかげで当時全く無名だったカタトニアやゴーキーズ・ザイゴティック・マンキ、スーパー・ファーリー・アニマルズなどのバンドが公共の放送電波に乗ることになる。その後、彼らの活躍はご存じのとおり。

 彼らの人気や行動に注目が集まり、ロック、ポップスなどポピュラー・ミュージックでウェールズ語を使うバンドがそれまで以上に現れるようになる。そしてこれらのバンドを通じ、若者のウェールズ語への関心を高めているのである。

ウェールズ語委員会(Bwrdd yr Iaith Gymraeg / The Welsh Language Board)
 ウェールズ語委員会(Bwrdd yr Iaith Gymraeg / The Welsh Language Board)は「ウェールズ語の使用を促進し、また、助ける」ために1993年に設立された公的機関。様々な活動を通して、ウェールズ語の使用を国民に促してきた。2012年3月31日にその活動を終えた。

 母体の発足は1980年代に遡る。この頃、ウェールズ語使用者の激減が止められない状況などから、ウェールズ語保護と使用の促進をめぐり、政治的圧力が増大する。その勢いは、これまでにないほどであった。その声を受けイギリス政府は、有識者による諮問機関としてウェールズ語委員会を設立。1988年7月であった。この委員会の役割は、ウェールズの首相(the Secretary of State for Wales;当時)に助言を与えることであった。

 そしてこの諮問機関としてのウェールズ語委員会の強い働きかけもあり、1993年にウェールズ語法案がイギリス議会で可決。これにより、ウェールズ語は英語と全く同等の価値を持つことになる。同時に諮問機関であったウェールズ語委員会は、法定機関となる。以後、500を超えるウェールズ語法案・計画を施行してきた。

 だが2004年に当時のウェールズ・ファースト・セクレタリー(※ウェールズ議会の長で、首相の地位に当たる)であったロードリ・モルガン(Rhodri Morgan)が、ウェールズ語委員会の廃止を決定。それに伴い、2012年3月31日、同委員会は廃止となった。

2011年ウェールズ語危機への傾斜
 ユネスコの公式サイトに、危機言語(Endangered Languages)というページがある。そこにはユネスコ世界危険言語最新地図帳(UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger)なるものが用意されており、地域などを設定することで誰でも絶滅に瀕した言語を検索することができる。

 それによるとウェールズ語はイギリス圏内にある危機言語9つのうちのひとつであり、ランクは「脆弱(vulnerable)」。

 これは絶滅の危機を示すランクでは最上位(つまり最も絶滅の危険性がない)ことを示すが、それでもウェールズ語が様々な人々の努力にもかかわらず、ユネスコによって“絶滅の危険あり”と判断されていることを示している。

 ここにあげた2011年という数字は伊達ではなく、以前、新聞や雑誌等で“ウェールズ語がこのままでいけば2011年に絶滅する”と発表されたものから来ている。実際にウェールズ議会は2010年5月04日には委員会「ウェールズ語裁決機関(the Welsh Language Tribunal)」を発足、その委員会は2011年初頭に一般の人からも意見を聴く場を設けることにしている。

 だがこのような折、イギリスは変化を経験する。今まで与党は一党のみで、その席は労働党か保守党が争っていた。だがこの2010年5月の総選挙では、単一与党で議席の過半数を取ることができず、結果的に複数の党による連立政権が誕生した。イギリスの議会政治の長い歴史上、初のことだ。

 そしてこの連立政権はバブルがはじけたイギリス経済を立て直すべく、大幅な予算削減を計画。その予算削減のまとに、S4Cがとまった。

 S4Cは今年だけで既に200万ポンドの削減が決定しているが、加えてこの先4年間に渡り24%の基金削減案が7月に発表される。更に追い打ちをかけるように、イギリス文化大臣のジェレミー・ハント(Jeremy Hunt)は、ウェールズ語のテレビ番組は、将来、英語で制作された番組にウェールズ語をかぶせたものとなる可能性がある、と発言。すなわちこれはウェールズ語独自の番組制作が行えないことを意味する。これが実現すれば、メディアを通じてウェールズ語への偏見をなくし、また、教育を促進してきたウェールズにとってかなりの痛手となることは確かである。

 そして翌2012年には、これまでウェールズ語の保護と促進のために、数々の功績を残してきた公的機関ウェールズ語委員会が廃止されることが、既にウェールズ議会で承認されていた。

2012年ウェールズ語未来への飛翔:ウェールズ語コミッショナー
 1993年ウェールズ語法案可決とともに、数々の計画を施行してきたウェールズ語委員会は2012年3月31日付をもって廃止となった(「ウェールズ語委員会」の項目参照)。それに伴い、ウェールズ語コミッショナー(The Welsh Language Commissioner)という新しいポストが、ウェールズ議会による法案によって設立。

 このウェールズ語コミッショナー(The Welsh Language Commissioner)は、ウェールズ議会により任命される。基本的にウェールズ語委員会の役割は、このコミッショナーが引き継ぐことになる。

 最初のウェールズ語コミッショナーは、同委員会の最後の議長であったメリ・ヒューズ(Meri Huws)。なおこの廃止と設立は立法措置によるものであり、この法律がこれまでの1993年ウェールズ語法案に取って代わる。

2011年国勢調査の結果とその反応 .1
 前出のウェールズ語コミッショナー誕生から8ヶ月。2011年に行われた国勢調査の結果が公表された。これによるとウェールズ語話者の割合が、2001年の20.5%より1.5%減退の19%ととなった。

 これはまさに予期せぬ結果であり、ウェールズ中に衝撃を与えた。これに対し、有識者らは次のように述べている。

 ロビン・ヴァッラール(ウェールズ語協会議長)「ウェールズ語は危機に直面している。過去10年間に渡り政府は、本来すべきやり方においてウェールズ語支援ができなかった。・・・ ウェールズの人々はわが独自言語に対して大いに協力的だが、政府は人々の渇望に見合うだけのことをしていない。」

 メリ・ヒュース(ウェールズ語コミッショナー)「今朝、警鐘の音が非常に大きく鳴り響いたのです。[今]ここで、私たちは決定的かつ切迫した挑戦に直面せねばならないのです」(the alarm clock has rung very loudly this morning, and there are very definite challenges to be face there, and urgently.)

 リアンネ・ウッド(ウェールズ党)「ウェールズ語が教室の中だけでなく、家庭、職場、そして社会情勢において、まさにウェールズ中で確実に使われなければならない。」

 アレッド・ロバーツ(ウェールズ自由民主党、北ウェールズ議会議員)「その地域(グイネッズ、カーマーゼンシャー、アングルシー)では、明らかに経済発展や、若者とその家族の就業の可能性において、問題がある。」

 サイモン・トマス(ウェールズ党ウェールズ語スポークスマン)「教育、言葉の権利、マス・メディアでどんなに歓迎されようとも、強い経済だけが、これら[北および西ウェールズの]ウェールズ語話者のコミュニティを長期間において生存・発展させうる」

2011年国勢調査の結果とその反応 .2 未来への希望
 先の衝撃から約半年後の2013年5月、新たなる統計結果が公表された。それによると16歳以下の子供らのうちウェールズ語使用者は、16-64歳および65歳以上の使用者より2倍以上多いことが分かった。16歳以下の使用者は具体的には16-64歳より2.4倍多く、65歳以上より2.3倍多い。

 男女別で見ると、15歳の男子のウェールズ語使用者の割合が35.6%であるのに対し、女子は44.7%と、女子のウェールズ語使用者が多いことがわかった。この傾向は50歳まで続く。

 また地域で見ると北部グイニッズ州では、ウェールズ語使用者の子供の割合は89.1%と9割方近い数字を出しているのに対し、南部のマーサーティドヴィルでは22.7%まで下がることもわかった。

 一方、グイニッズの16-64歳の62.5%がウェールズ語を使用しているにも関わらず、南部のブライナウ・グエントでは4.5%、ニューポートでは4.8%と5パーセントを割っている。

 この結果を受けて、ウェールズ政府のスポークスマンは「この調査の結果は、ウェールズ語の将来はウェールズの未来の世代にかかっているという事実を強調している」と語った。まさにその通りだろう。全体的な数字に関しては悲観的にならざるをえないが、この数値に関してはまさに希望の未来が垣間見える。





ウェールズ?! カムリ!
文章:Yoshifum! Nagata
(c)&(p) 2003-2013: Yoshifum! Nagata




主要参考文献
The Celtic Language, edited by D. Macauley, (Cambridge University Press, 1992)
The Green Guide: Wales, (Michelin Travel Publications, 2001)
Report on 1951 Census(Welsh Language Board, 1955)
Davies, Biran, Welsh Place-Names Unzipped, (Y Llolfa, 2001)
Evans, D. Gareth, A history of WALES 1906-2000, (University of Wales Press, Cardiff, 2000)
King, Gareth, Colloquial Welsh, (Routledge, 1995)
Jones, J. Graham, The History of Wales, (University of Wales Press, 1990)




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